指導者雑感(8)


審判について

少年サッカーのコーチをボランティアでやっている方のほとんどは、サッカーが好きで、かつ、子供好きです。まず間違いがないところでしょう。

ところが、サッカーの審判をすることも好きな方は極めて少数ではないか、と思います。

ここでは子供たちにサッカーのルールを教える大切さを述べたいと思いますが、同時にルールの精神についても、子供たちならびに大人に考えて欲しいと思います。

第一に、ルールや法に対する考え方・感じ方が、我々日本人と英国人ではちょっと違うのではないかということを述べたいと思います。

英国の憲法はご存知のとおり成文化されていません。文章になっていない法って?ちょっと日本人には想像できませんよね。

サッカーのルールも全部で17条しかなく、あまり細かいことは書いてありません。

一方で、日本人は細かく定めてある法が好きなんじゃないかな、と思うことがあります。

英国では法を定めた目的やその主旨が重んじられ、その主旨に反する行動を罰するという傾向があるように思います。一方、日本では

細かく定めた法の「抜け穴」のようなものを探し出して小さな成功を納める人を、知恵があるといったように肯定的に受け止める傾向があるように感じます。

英国などサッカー先進国での試合で審判の笛の音を聞いていると、吹き方の強弱などで反則の重大性が表現されていることに気づきます。

「卑怯なこと」に対しては力強く笛が吹かれています。例えば、サッカーでは手を使って相手を抑えることはもちろん反則です。ルールにそう書いてあります。

例えば、相手にドリブルで抜かれた瞬間などについ手が出てしまうようなことがありますが、厳密に言えばこれらはすべて反則です。

ただし毎回、審判が笛を吹くかどうかは別な話です。

笛が鳴るかどうか、笛の音の強弱はどうか、イエローカードが出るかどうか、レッドカードが出るかどうかはすべて「卑怯な程度」で決められているといっても

過言ではありません。

決定的な場面であり、反則を使ってでもこの突破を抑えようとしているのであれば、かなり卑怯であると言えます。

さらに、相手を倒すなどしてリスタートを遅らせるのであれば、卑怯度合いは増すことになります。

そしてさらに、相手がケガをするような倒し方をしたとすれば、

自分たちにとって危険なストライカーをケガさせておいて試合展開を楽にするという極めて卑怯な手段ということになります。

Jリーグの試合などを見ていると、結構、卑怯なことが軽く流されているような印象を受けることがあります。

何が反則で何は反則でないということや、どこまでは単なる笛でありどこからがカードなのかといった、言わばルールに関する知識を知ってはいても、

ルールに対する精神といったことが軽視されているのではないかと危惧する次第です。


少年サッカーでは、笛を吹きながらもできるだけ、なぜ反則なのか、それがなぜ卑怯なのかといったことを子供たちと一緒に学んでいきたいと思います。

次に大人たちにもちょっと言いたいことがあります。

指導者も応援団も審判を軽く見ている傾向があります。「どうせ審判はどこかのコーチの下っ端なんだろう」とでもいった態度なのかも知れません。

特にふんぞり返ったタイプのコーチなどが相手チームの反則にワザと大声をあげ、判定に不服である態度を示す。

ハーフタイムや試合後に子供たちにさえ審判批判をぶちまける。それを隣で聞いている応援団も図に乗ってしまったりする。

こういった大人たちは子供たちにいったい何を教えたいのでしょうか。

ルールの上で正当に戦い、その結果を厳粛に受け止めねばならない選手たち・子供たちに、

負けたのはルールが悪いとか、ルールの運営が悪いからだとでも教えたいのでしょうか。

この先の人生で負けたり、失敗したときは先ずルールやルール運営機関を疑えとでも教えたいのでしょうか。


サッカーのルールの最も重要な1項目は、「審判に従うこと」あるいは「審判の判定が最終のものであること」と言えるでしょう。

「あの審判はルールを知らねえ!」と吐く大人たちは、このルールを知らないのでしょう。


我々大人はみな、少年サッカーを通じて子供たちを応援し、支援し、指導すべき存在であるはずです。

大人のストレス発散のために少年サッカーがあるわけではありません。

審判を軽んじる態度・姿勢は必ず子供たちに伝播します。

もしかすると世界で活躍するかもしれない子供たちの可能性を、ほんの少しではあっても大人たちの心無い態度が阻害してしまうのです。

小野伸二選手が試合後にオランダ人の審判に笑顔で話しかける映像は、彼が子供の頃に育った環境を想像させて余りあります。




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