指導者雑感(6)


サッカー以前のこと

我々コーチ陣は、サッカーを学びたいという子供たちにサッカーを教えるのが仕事です。ボランティアの仕事ではありますが。

しかしながら、しばしばサッカー以前のことを教える必要性に迫られてもいます。ま、相手は小学生ですから。

サッカーのゲームでは、「危険なこと」と「卑怯なこと」は反則として罰せられます。

この2つのカテゴリーに属する類の行動・言動は、ゲームでなく練習中や練習前後であっても、キチンと指導する必要があるものと思います。

これに加えて「挨拶ができない」「話が聞けない」という子供たちも指導したいと考えています。

過去あるいは現在の名選手の中には、挨拶が出来ない選手や人の話を聞かない選手がいることは事実ですが、それは悪しき例外ではないでしょうか。

実は話が聞けない子供は、壁に当たったときにつらいのです。

少年サッカーの数年間においてさえ、子供たちは「壁」にあたることがままあります。中学以上になればなおさら壁は高くなるでしょう。

壁に当たった子供たちが、それで上達をあきらめてしまったり、壁を避けるようなプレースタイルになってしまうことを恐れます。

壁は子供たちが自ら感じることもありますが、多くの場合、我々コーチ陣の方が早く正確に気が着きます。

「プレスが早いと何もできない」「サイドはできるが真ん中はできない」「サイドの意味がわからない」「視線がボールから全く離れない」

「1対1を避けてしまう」「負けている試合では何もできない」書き出せばキリがありません。

負けた試合や調子の出なかった試合で、子供はあるいは「今日は調子が悪かった」ぐらいにしか感じないかもしれません。

しかし、往々にして壁にあたっているケースがあります。

このことを我々は子供にわかるように説明したいと考えています。でも、話を聞けない子供、話を聞かない子供がいることも事実です。

そして、挨拶は人の話を聞くための第一歩です。話をきこうとする子供には挨拶のできない子供はいません。

たとえ控えめな小さい声であっても、話が聞ける子供は必ず挨拶ができます。

我々は家庭教育の中まで踏み込んで、教育方針について云々するつもりは毛頭ありません。

しかし、話を聞く能力は少年サッカーには必須であり、挨拶はその必要条件であると考える次第です。


もう一つ、サッカーには「相手の立場で考える」能力が重要だと考えます。

「どこでどういうボールが欲しいのか」「自分がこちらのサイドを切る=守るから、仲間には逆のサイドを見て欲しい」

「オウンゴールしてしまった仲間が今、どんな気持ちでいるのか」など、仲間どうしで相手の考えを推察する能力が大切です。

また、戦っている相手チームの考えを見抜くことが組織的に戦うことに働くことは言うまでもありません。

生まれたばかりの赤子は他人の立場で考えることなどできません。

小学生であっても、できないことのほうが普通であると言えます。大人ですらできないことが多いのですから。

相手の立場で考えることができないと、試合に出たくても出れない仲間の気持ちを察することなどできるはずがありません。

自分がいい加減な気持ちで試合に出ているとき、勝負にこだわって真剣にプレーしている仲間の気持ちもわかりません。

反則で相手を倒す子供たちの多くは、倒された子供の気持ちがわかりません。

あるいは、熱くなってラフプレーに走る子供は、フェアに戦いたいと思っている仲間や相手の気持ちなど夢にもわかりません。


「危険なこと」「卑怯なこと」は退け、「挨拶」ができ「話が聞ける」ようになる子供は、高学年に近づくとともに「相手の立場で考える」ことができるまでに成長します。

こういう子供たちは、たとえ自分がプロ選手になれなかったとしても、きっと次の時代のサッカー普及に貢献してくれるものと信じています。




判断機会を奪わない
サッカーはなぜ、こうも楽しいのでしょうか。

体を動かすこと自体が楽しい、仲間と一緒だから楽しい、友達がたくさんできるから楽しい、ワザを覚えるのが楽しい、得点を入れると楽しいなど、キリがありません。

こういった楽しみは、傍らで子供達を見ていても気がつきますが、実際に自分がやってみないとわからない楽しさの一つに、「自分で判断する」楽しさがあります。

もちろんこの楽しさは、判断したことを実行できるだけの力がないとわかりませんので、ある程度、ボールコントロールができないとこの楽しさには気が着きません。

野球を誹謗するわけではありませんが、野球では監督がベンチから「バント」や「ヒットエンドラン」のサインを出すことがあります。

サッカーではどうでしょうか。監督がベンチで何かサインを出したとしても、誰もそれに注目する余裕などありません。

むしろベンチばかり見ている子供は別な意味で問題があるかもしれません。

自分の前にやってきたボールに対して、選手は瞬時に判断します。あるいはボールが来る前から考えをめぐらせています。

「右に出す」「左に出す」「ドリブルに入る」「右に行くフェイントを入れて左に行く」「右に行くフェイントを入れて左に出してワンツーで返しをもらう」。

選択肢は無数にあります。こういった判断を瞬時のうちに下します。

その判断が相手に読まれず、相手の組織を崩すことによってチャンスが広がれば、子供であろうが大人であろうが選手は楽しさを覚えます。

同時に、こうして選手としてのセンスが磨かれていくのです。

「試合に勝ちたい」という気持ちは誰にでもありますが、子供以上に親やコーチが勝ちたい気持ちを強く持つと、

ベンチから「大きく!」「外に出しとけ!」「前!」「右!」「左!」という「命令」が飛ぶことになります。

ルーズボールを追いかける子供に向かって「大きく!」と命令すれば、子供はそれに対してそれこそロボットのように従うことになります。

しかしながら、なぜここで大きく蹴り出すべきかの学習機会を失ったその子供に対しては、同じような局面では何回でも「大きく!」と命令せねばならないでしょう。

極端なケースでは、自己満足型の怒鳴りコーチと、考えない子供たちのチームができあがってしまいます。

そして、実際にはそういうタイプのチームがことのほか多いのも事実です。


子供に対してはたとえ公式試合中だとしても、指導の場であると考えたいものです。

全国大会予選であっても、子供にとっては「最後の大会」などではありません。33歳で迎えるワールドカップとは違うのです。

6年生の大会は、親やコーチにとってどうしても「最後の大会」と考えられがちですが、

子供にとっては「サッカー人生における最初の大会」という位置づけではないでしょうか。


例えば「逆を見ろ!」と命令して、そのとおり逆サイドに出して得点になったとしても、その成功体験は子供にとって印象の大きいものではありません。

親やコーチが満足するほど、子供自身は満足していません。

「な!だから言っただろう!」と言われて、笑顔を見せたとしても、大人むけの表情を顔に乗せているだけかもしれません。

たとえばこういうときであっても「呼べ!」と言うだけでも、ずいぶんと違います。

ボールを持っている子供が「呼ぶ」わけはありませんので、残る10人の中の誰かが呼ぶべきなのです。

では、誰でしょうか。自分がチャンスの場所にいると考える子供が呼ぶはずです。

上手くいけば逆サイドをねらっている子供が「逆!」という声を出してくれるかもしれません。

ベンチから聞こえてくるコーチなど大人の声は子供にとっては命令ですが、

同じフィールドに立つ仲間の子供から発せられる声は情報であり、選択肢の一つにすぎません。

あるいは、どういう判断をするかが重要な局面にある子供に対して、何かをやれと命令するのではなく、「どうする?どうする?」と声をかけるだけでも全く違います。

この問いかけは、この局面は判断が重要な局面であることを子供に教えるものであり、怒鳴り声で「どうするんだ!」とか言って、

プレーのあと「バカかオマエは!」というようなノリでやらない限り有効です。明るく楽しそうに「どうする?」と聞いてみましょう。


ここで、保護者の方に一つお願いがあります。

保護者の声は「応援団の声」であり、コーチの声は「指導の声」であります。

しかしながら、子供にとっては同じく大人の声であり、場合によってはコーチより母親を怖がっている子供も少なくないでしょう。

コーチの後ろに応援団が陣取って、応援の声をあげたとして、子供達はその声をどう聞くのでしょうか。

「ベンチの方角から聞こえてくる大人の声」に変わりはないわけですから、指導の声と応援の声を混同してしまうのではないでしょうか。


府中市が年に1回主催する招待大会では、指導者が座るサイドと、応援団用のサイドを分けています。

また、強くしっかりしたチームの中には、応援団はコーチ陣から少し離れて陣取ることを暗黙のルールにしています。

あるいは、その上、応援の声についても、コーチから「指針」が示されているようなチームすらあります。

関前では、そんなに厳格にやるつもりはありませんが、一つだけ、

「子供に命令しない」すなわち「子供の判断機会を奪わない」ということだけはルールとしたいと考えています。




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