指導者雑感(3)


サッカーから学ぶこと

スポーツは青少年に,あるいは大人にも、様々なことを教えてくれます。

でも、ここではサッカーから学ぶことに絞って、我々指導者の考えを述べたいと思います。

サッカーが他のスポーツと大きく違う点を一つだけ述べるとすれば、それは「ミスの連続」「ミスの連鎖」あるいは「ミスを前提としたスポーツ」といったことでないかと思います。


高く上がったボールを上手くトラップして右に出し,一発で相手をかわそうと考えていたのに、ミスってしまってボールが相手の正面に行ってしまった。

反射的にそのボールを取りに行ったら相手は驚いたせいかミスしたようで,ボールを奪い返すことに成功した。

そのままドリブルに入ってゴールが見えたのでファーポストをねらったシュートを打ったが、ミスってインサイドに引っかけてしまってセンタリングになってしまった。

ところが最初からセンタリングを期待して走り込んだ仲間にピッタリあって結果OK。その仲間は瞬間、胸でトラップしようとしたが

走り込んできたスピードが大きかったため、ミスってトラップが大きくなり、そのまま胸でシュートというカンジでボールがゴールに入っちゃった。 で、得点!

大きなミスを3つも重ねたというのに、積極性が幸いしてゴールをゲット。この一連の流れをもし試合で見たとしたら、「ミスが3つも」とは恐らく感じないだろう。


サッカーはミスがあって当たり前なのである。自分のミス、仲間のミス,それらは日常茶飯事どころか,数秒に1回ぐらいの割合で発生するものなのだ。

「あ、ミスった」と下を向いているヒマはない。

ミスを前提に,みんなで積極的に攻撃し、また、守備ではカバーしあう。そうでなければサッカーは仲間割れの連続になってしまうだろう。


話はかわって人生ってどうなんでしょう。やっぱりミスの連続なんじゃないだろうか。ミスしたら最初からやり直すことができるテレビゲームとは違うハズ。

ミスをミスとして受け止め、それをカバーするようなことをしなければいけないはずだ。

失敗を悔やんでいるヒマはない。青春あるいは人生の時計は止まってはくれない。先に進まなければ。


そして,「ミスの連続である」ということに加えて、もう一つ,サッカーが教えてくれることがある。因果関係だ。

人生あるいは社会における因果関係は決して単純ではない。

みんながゴミを捨てるから街が汚くなる。たった一つのゴミは大したことがないけれど、それが集まると大変なことになる。

誰もが自分のことしか考えないと,とても住みにくい社会になる。たった一人のワガママならば大したことがないけれど。


さて、サッカーはなかなか点が入らない。たった1回のミスならば、それが失点につながることはほとんどない。

たった一人が1分サボっても、それだけが理由で失点になることもマレだ。

でも、ミスが連鎖し、フォローがなくなると,ジワジワと失点につながっていく。サッカーの失点は1点ずつだけど、実は0.1点ずつ入っていくようなものなのだ。

得点だって同じだ。いい形ができてきて、いいムードになってくると、0.1点ずつ積み重なるようにして、いつしか1点になる。

自分の1つ1つのプレーが,得点につながり、失点につながる。


子供にとって、このこと、すなわち1つ1つのプレーと得点・失点という因果関係を学ぶには実は時間がかかるものなのです。

しかし,高学年になりセンスの良い子はこの法則を学び始めます。

学校で友達をイジメたり、テレビばっかり見ていたり,お菓子ばかり食べていたり,ケータイばかりいじっていたり,勉強をサボったり、大人をバカにしたり。

こういったことの1つ1つは大したことがないかもしれないけれど、それらが積み重なって,人生における失点につながっていく。


1つ1つの勉強や,頑張りや,気配りがそれだけで実を結ぶことは少ないけれど、そういったこと1つ1つが積み重なって人生における得点になる。

人生の因果関係って,テレビゲームやテレビドラマ,マンガのように単純ではない。

1つのことが原因となって数分後に結果が出るような単純さは人生にはない。この法則はサッカーだけではないかもしれない。

しかし、ミスばかりのサッカーだから、ミスを挽回し続けなければいけないのがサッカーだから、それを怠るという原因が積み重なってやがて,重い重い失点になる。

サッカーって,人生の縮図みたいなものかもしれませんね。




差について

「差」という言葉も「違い」という言葉も、どちらも英語ではdifferenceですが、日本語の二つの言葉にはニュアンスの違いがあります。

「差がある」と「違いがある」には、違いがありますよね。

「子供の個性」のところで述べたように、プレーヤー一人一人には個性があり、違いがあるわけですが、

子供は,あるいはそれ以上に親たちは、違いではなく「差」として受け止めてしまいがちです。


大きい選手に小さい選手、細い選手に太い選手、上手い選手に強い選手など、サッカーのプレーヤーは自分の長所を最大限に生かすことで、

特長ある名選手に育っていきます。同時に、自分とは違う他の選手の長所を認めることで、人間的にも一回り成長するものなのです。


「違い」という言葉には本来,良い/悪い,好ましい/好ましくないといったニュアンスはありません。

個人技重視のチームと組織プレイ重視のチームとの間には違いがありますが、どちらが良いとか悪いというニュアンスを「違う」という言葉は内包しません。

西洋と東洋、キリスト教とイスラム教、中華料理とイタリアン、野球とサッカーというように,違いがあるものや概念を並べてみても、

どちらが良い/悪いという意味を「違う/違い」は表現しません。


ところが「差がある」「差がついた」というように「差」という言葉を使うと、良い/悪いというニュアンスを持ってしまうものです。

3年生/4年生ぐらいになると、子供達は同級生の中での「差」を感じ出します。そして、子供達以上に親が「差」を感じるもののようです。

「差」は一次元です。身長に差がある、スピードに差がある、リフティング回数に差があるというように、

数字や量で表すことができる事柄や概念に対して「差」という表現を使います。


ところが「長身を生かしたプレー」「スピードを生かしたプレー」「ボールタッチを生かしたプレー」というように,「違い」として表現すると,

数字や量の差に着目するのではなく、プレースタイルの違いに着目した表現となります。我々コーチたちは,子供の個性を生かした指導をしたいと考えており、

一次元の順序集合を作って上から11名を採用するなどという野蛮なことをやるつもりは全くありません。


子供達の間の違いに注目しますが、差をみつけようとしているわけではありません。

ただし、唯一、重視している「差」は、「サッカーが好きな程度」に関する差です。

サッカーがキライ/まあまあ/やや好き/結構好き/大好き/チョー好き/メチャメチャ好きといった具合にサッカーが好きな程度をもし定量化したとするならば、

その量が大きければ大きいほど,我々指導者は嬉しく感じます。

何より、我々の使命はより多くの子供達をよりサッカー好きにさせることではないかと考えているぐらいなのですから。


サッカーが好きになれば、子供は必ず「上手くなりたい」と考えるようになります。

そして、どうすればもっと上手くなれるのか、どんなプレーを上手にやりたいのか、どんな練習をすればよいのかなど、考えに考え抜き,

というか成功体験と失敗体験を繰り返していき、それらが積み重なった結果として,自分のプレースタイルを身につける、

すなわち個性有るプレーヤーに成長していくのです。

必ずしも、5年生や6年生で完成するわけではありません。関前を卒団するまでに実を結ぶとは限りません。

しかしながら、サッカーが好きであれば、サッカー好きが持続する限りは、いつか自分の長所を生かしたプレースタイルを身につけるものなのです。

ですから、我々は「サッカー好きかどうか」についてだけは、「差」に敏感になります。

3年生ぐらいであれば,運動神経の「差」が保護者にとって気になるものと想像しますが、その年代におけるサッカー好きかどうかの「差」は、

たった3年後の6年生のときですら、運動神経の差を補って余りあるだけの結果を実現します。

そして,6年生という年代はまだまだ「結果」などという言葉を使うべき年代ではなく、

それ以降もサッカー好きな程度に差があれば、もっともっと大きな結果の差を中学生/高校生になったときにもたらすはずです。




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